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甘い生活・1



「──瀬賀(せが)さん、お願いします」

楽屋というには狭隘だが、一応は個室のドアが、ココン と軽いノックでくすぐられた。

彼女は手狭なスペースに置かれた化粧台の前の椅子で脚を組んだまま、

最後の一服の後に、はーい、と返事。そして、キュッと灰皿に煙草を押しつけると、

やや斜に鏡の中の自分の姿を見やってから、立ち上がった。

「今夜も来てますよ、あの人」

「……そう」

大して気に留めぬように、彼女は呼びに来た店員の青年の横を通り抜けた。

ドアを開けると、薄暗い空間。舞台の袖に、息をひそめるように彼女は足を踏み入れ、

そしてまた、その圧力に抗するように背筋を伸ばした。


チェロ、そしてピアノのアンサンブルが、穏やかにイントロを奏で始める。

彼女は「グー」と、袖にいる店員にサインを出すと、舞台へと踏み出した。


 何度も喧嘩をしたわね 二人がまだ若い頃

 貴方は荷物を纏めて 私は家を出た


気怠い、かすれたアルトの声が、夜にしみ渡るように響く。

スポットの下、黒いスーツに、腰までの栗色の髪が、艶やかな波を描きながら揺れる。

その歌声は、うつむくようで、真っ直ぐに語りかけるようで。

アンニュイとノスタルジアが、空間一帯に広がってゆく。

――彼女は、歌姫。


 傷つけあいながら 心を装って

 微笑みかわした日々

 求めあっていた二人だったのに

 別れがきてしまった


客席が、ボンヤリと見える。虚構と現実とが交錯する瞬間。

彼女は、意図的に何処かを見るとういことはしないつもりだったが、視線は何げに、

或る人物の所在を探している。


 オー モナムール

 別れた人なのに

 日暮れが近い今も

 貴方が 貴方が好きでした


押し殺すような最後の呟きは、しかし何処か甘く苦い表情で。

ピアノの余韻が消えても、心の余韻は消えやらぬように、数秒の静寂が続いた。


――彼女が客席に向かい、静かに微笑み、ゆっくりと礼をすると、ようやく我に返ったように

拍手が迎えた。

「今宵も、ようこそいらっしゃいました。瀬賀チヨコです。えー、今ご紹介したのは1960年代の

 シャンソン、『懐かしき恋人の歌』。愛し合いながら憎しみ合い、苦しみながらも懐かしむ

 男女の激しい想いを、実に抑えた語り口で綴った物語ですね。何だか最初が重厚な感じで

 始まってしまいましたが、次には軽快なアコーディオンに活躍してもらいましょう。

 まあ、これも男に騙された女の歌ですから暗いんですが――『サンジャンの恋人』」

後ろの伴奏者達とぶつかりそうな小さなステージの上で、彼女は再び歌い始めた。


老舗の品格と、ミニステージのアットホームさが溶け合うカフェ。

彼女はここの看板歌手の一人だった。美しさの盛りを過ぎた女の悲哀も、初めて恋を知った

乙女のときめきも歌いこなすというのは、その歌唱力もさることながら、それなりのキャリアを

積みながらも、まだ少女のような純粋さをも残した、彼女自身の個性の為せる技だろう。


「お疲れ様、チヨちゃん」

今夜のステージを終え楽屋で一服していると、チョビヒゲの店長がやってきた。

つるんとした容貌が想像させるまんま、人当たりの良いモーホーのおやっさんで、

彼女をここまで育てた恩人でもある。彼女に対して色々と面倒を見てくれたのは、

実力を見込んだことと、親子ほども年が離れていたということと、あと、彼女が

どちらかというとオトコ顔だったからではないかと言われていた。

「今夜も良い艶の声だったわねぇ」

「有り難う、店長」

チヨコは煙草を片手に、しかしニッコリと少女のような笑みを浮かべた。

「やっぱ、カレが来てたからかな?」

「そんな…ステージからじゃ見えなかったわよ。第一、別にカレなんかじゃ」

「つれないこと言って。いい加減になさいよ、チヨちゃん。カマトトやってるトシじゃないんだし」

「ひどいなぁ」

「それともやっぱり、コワイの? あの人」

「そんなこと……」

チヨコは苦笑した。


「――今晩は、隆木(たかぎ)さん」

チヨコは、その存在感からしては控えめな、店内の中程から外れた所にあるテーブルで独り、

水割りのグラスを傾けていた男性の後ろに立った。後ろ姿にもその品格に偽りのない、

白に近い色のスーツにも野暮ったさのない男性は、静かに彼女を振り返る。

「お隣、よろしいかしら」

「光栄です瀬賀さん。歌姫の方からお越しいただけるとは」

彼は、その上品さでも知的な容貌でも、常連客の中で間違いなくAランク。

年はおそらく、チヨコより四、五歳上の四十前後といったところ。

出で立ちから立ち居振る舞いまで、まったく隙のない完璧な紳士だが、かといって近寄りがたい

堅さはなく、声も言葉も実に穏やかで、相手を緊張させない自然さを備えている。

「何か、お飲みになりますか?」

「えぇ。いえ、自分で頼みますから」

チヨコは彼の手を煩わせることなく、座ったまま店員に目配せをした。

「先日の渋谷のライヴは趣向が変わっていて楽しかったですね。

 流行歌があんな風に歌われるなんて、聴いてみるまでイメージできませんでした」

「ジャズナンバーとも違って、元々の歌い手さんのイメージがかなり強いだろうし、正直迷いは

 有ったんですけど…だけど好評で良かった。…あ、そういえばあの時も、素敵なお花を

 有り難うございました」

隆木がチヨコの歌を聴きにくるようになって、まだ一年にもならない。

このカフェだけでなく、彼女が他にも出ている店や舞台には、ほとんど姿を見せるほどの

ご贔屓で、いつからとはなく、親しく言葉を交わすようになっていた。

二人が互いに好意を感じていることは誰の目にもあきらかなことだったが、

それぞれに落ち着いた年齢の男女に不粋をする者もなく、穏やかな時間を過ごしていた。

だが、それにしてもこの二人の間には、妙な距離感があった。紳士的ではあるが何処となく

謎めいたところのある隆木と、気怠い色気の中にも少女のような純粋さを残すチヨコの二人は、

一見親しげだが、それでいて遠慮があり、よく見ていると不思議な間柄だった。

それも、もう少し見ていれば、チヨコの方に、隆木との間に何か、或る一定の間合いを保とうと

している気配があるのも分かる。拒絶、ではない。むしろもどかしく、誰かにあと一歩の所で

背を押してもらわなければ動けない、稚拙な恋心がそうさせるような態度で、店長が

彼女のことを「カマトト」と揶揄したのには、そういうことがあった。もうとっくに恋人同士

であっても何の不思議はない二人の関係は、言葉を交わすようになったその日から、

ほとんど進展していない。



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